もう少し自己紹介。
私の祖父は大工でした。
祖父の家は黒光りする太い柱と梁のある古民家です。
その頃の大阪はビッグプロジェクト目白押し。出江先生の事務所は、いわゆる“アトリエ系”の事務所でしたが、それでも大型のプロジェクトを数多く抱えていました。
男性スタッフは企業や役所の大規模建築を担当し、女性スタッフが出江先生の作家活動を支える担当者として住宅を任されていました。
入社して日の浅い私も企業のオフィスビルを担当させていただき、やり甲斐のある充実した日々を過ごします。
ところが・・入社2年目の秋、バブル崩壊。
大部分のプロジェクトがストップし、私の担当していた物件も、全て計画が頓挫します。スタッフの整理も行われ、本来なら男性スタッフが携わることの出来ない住宅案件を引き継ぐこととなります。
出江寛先生の住宅作品に憧れ、住宅を教えていただきたくて弟子入りした私にとって願ってもない仕事でした。
この住宅を担当するまでの私の仕事は、役所や不動産会社の担当者といった企業相手の打合せを行ってきました。
企業や役所の担当者でも、私たちの図面をそれなりに楽しみにしてくださるのですが、個人の住宅の場合、クライアントの楽しみにしている度合いがこれまでとは比べようもないほど大きいのです。
出江先生が同行しない私だけの打合せでさえ、目をキラキラと輝かせながら打合せに臨んでくださるのです。
打合せや工事の過程を楽しんでくださり、出来上がった時のクライアントの喜びと心からの感謝の言葉。
「ああ、住宅の設計ってこんなに楽しいのか」と心に刻んだ出来事でした。
この物件が終わった後は、公共建築の担当に戻るのですが、私の住宅設計への想いを募らせる契機となる出来事でした。
出江先生は竹中工務店設計部出身のアーキテクト。技術的なバックボーンがある上で作品性を追求する建築家です。
若いときに一流建築家の世界を見れたことはいい経験でした。しかし建築家の中には、自分の思想やデザインを追及するあまり技術をないがしろにする人も少なくありません。
メディアで華々しく取り上げられている建築家たちの実像を知るにつれ「それは違うのではないか」との思いを深めていきます。
何か違う・・と思いはじめた1995年1月17日。関西は阪神淡路大震災に見舞われます。
週末、建築判定ボランティアとして神戸に通うのですが、震災後はじめて神戸に降りた光景は生涯忘れることはないでしょう。
倒壊した建築は、必ずしも古いものばかりではありません。頑丈なコンクリートや鉄骨で出来た建築が、少し間違えただけでこのような壊れ方をしてしまうのか・・・と大変な衝撃を覚えます。
ともすればデザイン優先になりがちな自分を強く戒める出来事となります。私が構造について強いこだわりを持つのは、この時の神戸の惨状が脳裏に焼きついて頭から離れないからです。
大阪での充実した建築まみれの6年間を過ごし、地元の豊橋に戻ります。
豊橋では、木造在来工法の地元ハウスメーカーで数多くの注文住宅に携わり、その後、中堅ゼネコンで監督兼設計で現場を経験した後に独立。
当時は橋本内閣の消費増税により景気が冷え込んだ時期で仕事を得ることが大変で住宅コンペにも積極的に参加していました。
「劇的・ビフォーアフター」などのテレビ番組の影響と、ネット環境の整備によって、年々、設計事務所に対する理解が深まっているように感じます。
コピーライターの二階堂薫さんの言葉に次の言葉があります。
「奇をてらわず、飾り立てない。味やひねりは、おのずと現れる。」
まさにそんな建築を作れたらとの思いです。
自分の作った家に、責任と誇りと愛着を感じる。
磨き上げるように考えつくした家をつくりたい。
自分が住みたい家をつくりたい。
クライアントが喜ぶ家をつくりたい。
何年後も、何十年後も喜んで貰える家をつくりたい。
そんな家づくりがしたくて私は設計事務所を開きました。
設計事務所を開いて23年が経とうとしています。幸い、近年はそのような仕事に恵まれるようになりました。
これからも、ひとつひとつの家づくりを大切に、いい家を作ってまいりたいと思っています。